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「寿命ばかり伸びて、突然死のない社会」は、本当にしんどすぎるのか問題

人生100年時代は、本当にしんどすぎる社会なのか?

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よく読んでいるBooks&Appsの記事の中に、下記の記事がありました。

 

「寿命ばかり伸びて、突然死のない社会」が、シンドすぎる件。

Books&Apps / by 高須賀 / 15h

 

筆者の高須賀さんの主張は、人生100年時代の老後はさらに、強者と弱者の違いが強調され、弱者は、非常に辛い生活を強いられることになるのではないかという考察です。

 

これは確かに、筆者の主張通りだとは思いますが、そうだとしても、そこには何か希望や違いを見出せないものでしょうか?その点を少し考えていました。その前に、筆者の主張を、紹介します。

 

ここ最近、老後2000万円問題が話題となっていた。

 

(参考:言ってはいけない年金制度の真実 「老後資金2000万円不足」の本当の意味(橘玲) )

 

 

 

この問題をみたときに僕が思ったのは、長寿社会というものの負の側面が徐々に現れてきたなという事だった。

 

 

 

ご存知の通り、日本人の寿命は非常に長い。

 

厚生省の発表によると、男性は81歳程度。女性に至っては87歳程度にもなるという。

 

65歳を定年とする今の日本社会においては、約20~30年、人によっては40年近くもの歳月を”働かず”に生き抜かなくてはならない。

 

 

 

その老後の生活を安心して過ごすための年金制度だったわけだけど、その根幹が揺るがされた、との事で今回の件はここまで燃えているのだろう。

 

 

 

この問題をみたときに、即座に思いつく回答のうちの1つが「だったら働けばいいじゃないか」という事だろう。

 

実際、僕もそう思ったのだけどこれはかなりの割合の人には死刑宣告にも近いような回答だ。

 

 

 

65歳以上で強い市場価値を保ち続けるのは多くの人にとって非常に難しい

 

例えば、医者のような高度専門職であれば65歳になろうが引く手数多である。年収だって軽く1000万円は維持できる。

 

 

 

一方で、普通の産業に従事している人はどうだろうか?

 

例えば肉体労働者は、65歳ならまだ筋骨がそこそこある方かもしれないけど、さすがに70を超えてきたら随分と厳しくなってくる。

 

 

 

このように、肉体に消耗性があるタイプの職種に「働けばいいじゃないか」というのは非常に厳しい話だし、他の職種につけというのも相当に苦しい。

 

少なくとも僕は、いったい何の職業を斡旋すればいいのかあまり想像がつかない。

 

 

 

普通のサラリーマンだって相当に苦しい。

 

たまたま運良く、現代でも重宝されるようなスキルを身につけられた人ならそれなりの年収を継続して得られるだろうが、普通に働いていた人の多くは学んだ知識が使い物にならなくなる事も当然出てくるだろう。

 

 

 

65歳にもなって、今から新しいスキルを身に着けろと言われても、多くの人にとってはかなり難しいだろう。

 

少なくとも僕は今からもう一度新卒のような狂った働き方はできない。

 

結果、職歴をキチンと積み重ねられなかった人かどうかで極端な格差が生じる。

 

 

 

そしてこの格差は”死ねない”現代社会においては、ほぼ寿命が来るまで固定化する。

 

キチンと職歴を積み重ねられた人は65歳以降も高収入が持続する一方で、それができなかった人は誰にでもできるとされている低賃金・単純労働の仕事を斡旋されるのだとしたら、行き先は

 

……Amazonの倉庫みたいな場所になるのだろうか。

 

(参考:【社会の底辺】アマゾンの倉庫で絶望し、ウーバーの車で発狂した。 | Books&Apps)

 

 

 

65歳まで嫌な上司の仕打ちに耐えて、やっとこさ開放されたと思ったらAmazonの倉庫で絶望するような社会だとしたら「そりゃちょっとないよ~不二子ちゃん」だろう。

 

 

 

知識社会の逆は知識がないと稼げない社会

 

さすがに高齢者をAmazonの倉庫送りにするのはいろいろと政治的にもアレだろうから、もう少し真面目に試算してみるとしよう。

 

 

 

元院長の話題で、高齢者の運転免許証返納問題が話題になっていたけど、人間は高齢化すると身体もそうだが脳の機能認知も除々に低下していく。

 

オレオレ詐欺の集団はこれを「バグる」と表現するようで、脳が「バグった」かの確認の為に高齢者の家に定期的に電話をかけるのだという。

 

非常に聡明そうな高齢者でも、ある日をさかいに「バグ」ったら、簡単にお金を引き出せるようになるのだ。

 

 老人喰い:高齢者を狙う詐欺の正体 (ちくま新書) 老人喰い:高齢者を狙う詐欺の正体 (ちくま新書)

 

 

知識社会において、肉体機能が低下したり、脳が「バグ」った人は、はたしてどれほど稼げるのだろうか?

 

単純な比較は難しいが、1つのモデルケースとして障害者の雇用状況を比較対象とする事ができよう。

 

 

 

やや古い情報ではあるが、厚生省の平成25年度における障害者雇用実態調査の結果を参照すると、フルタイム勤務で身体障害者は月25万1千円で知的障害者が月13万円である。

 

障害者雇用実態調査|厚生労働省

 

 

 

もちろん、高齢者と障害者は全く同一の存在ではないので単純に同じような金額をスライドすべきではないだろうけど、まあだいたい月20万程度というのは体感的にもそんなもんかなという感じがするし、そこまで見当はずれな金額でもないだろう。

 

 

 

知識社会とは、知識がある人に優しい社会だ。

 

そして知識というのは、心身が共に健康であるが故に発揮されるものでもある。

 

人生100年時代においては、肉体と頭脳のメンテナンスがこれまで以上に価値のある事とされていくだろうし、実際問題グローバルエリートの世界では肌感覚的として既にそういう社会になっている。

 

 

 

長寿社会において、健康である事の期待値はすさまじい。

 

65歳以降も働くのだとしたら、いかにバグらずにレースを駆け続けるかで期待値は何倍も変わってしまう。

 

 

 

そしてこれは、グローバルエリートレベルの人間ですら、心身の健康を失い身体と脳がバグったら残りの人生を働ける期間は年収240万円で過ごせというのとほぼ等しいことでもある。

 

そんな感じで本当の意味で働けなくなるまで働かされるのが100歳時代のライフ・シフト!という事になるだろう。

 

 

 

必死に働いて、知識社会を走れなくなった途端、今度は新卒ならぬ老卒の就活が始まるのかと思うとなかなか胸が熱くなるものがある。

 

 

 

こんなの、まるで長生きする事自体が何かの罰ゲームなんじゃないかといわんばかりの対応である。

 

長生き社会で増えた人生成分は幸福ではなく、生き抜くことのシンドさなんじゃないかと思わずにはいられない。

 

 

 

突然死のない社会はこんなにもシンドかったのか

 

私達は肥料の開発により、飢えから開放された。

 

そして医療の発達により、健康寿命が増えた。

 

今では餓死する人はほぼいないし、医療が受けられずに死ぬ人はほとんどいない。

 

 

 

結果、とても長生きとなったわけだけど、その結果どうなったかというと、ご覧の有様である。

 

こうした現状をみると、運がいい人間、強い人間には長寿社会はとても莫大な恩恵をもたらす一方で、強く慣れない人にはまだ突然死の要素があった時代のほうがある意味では優しさがあったのではないかとすら思わされてしまう。

 

 

 

感染症などのSudden death(サドンデス)はある意味では平等だった。

 

弱者は弱者で、良くも悪くもゲームから降りられた。

 

強者も等しく執行対象となるから、ゲームバランスの調整が起きて、強くない人間にもワンチャンあるんじゃないかと思わせてくれる何かがあった。

 

 

 

しかし今では強者はずっと強く、また難易度調整も全く行われない。

 

というか強者は職歴を積み重ねたり自己研鑽が習慣化されているから、知識社会においてはドンドン強くなるし、ますます健康的で強靭な肉体を獲得するような社会を形成するようになるだろう。

 

 

 

一方で強く慣れない人間は、それらを積み重ねる事自体が非常に難しくなるだろう。

 

普通に生きているだけだと、65歳から死ぬまでの間、ずっと年収240万円のベルトコンベアーへと一直線である。

 

 

 

そして死なない社会においては、この2つはほぼ固定され約束された未来への一本道なのである。

 

これが誰もが病で亡くなること無く、腹いっぱい白飯が食える健康な社会の実情だっただなんて、いったい誰が想像できただろうか?

 

 

 

昨今の都会の中学入試の盛り上がりは、年収240万円ベルトコンベアーからどれだけ逸脱できるかのラットレースをみているかの如くである。

 

 

 

全部が全部、自己責任といえば確かにそういうものなのかもしれないけど、いやはや、ほんとこの問題、本当にどうすればいいんでしょうね・・・。

 

長生きって本当に難しい。

 

 

いや、まさしくその通りなんだけど、この主張は希望がなさすぎる。

確かに、社会的弱者の65歳以降は、年収は2,40万で暮らさないといけないくなるかもしれない。それでも、せっかく長生きできる社会になったのだから、何か希望は無いのだろうかと思ってしまいます。

 

これから先、確かに知識労働社会になっていけば、弱者と強者の開きは、どんどん広がっていくかもしれません。

 

じゃぁ、今の40代、50代、60代で、弱者に陥っている人は、もう老後は絶望しかないのでしょうか?私は、そんなことわないとあえて言いたいです。

 

例えば今45歳の人であれば、定年退職の65歳まで20年間あります。その20年間で何もできないと嘆いて絶望的に暮らす必要はあるでしょうか?

 

私は、そんなことはないと言いたい。

そんな必要は全くないと私は断言したいです。

 

例えばこの25年間で、本業とは別に、ブログの記事、例えば「健康ブログ」を始めて、その記事を週2回アップし続けるとします。

 

もしそれを25年の間続けることができれば、その記事の量は一体どのくらいになるか計算しています。

 

1年間で52週、週2回記事をアップすれば、104記事。

25年間書き続ければ、 2600記事になります。

 

これだけ記事を書き続けることができれば、この記事を使って、自分で本を出版することもできるだろうし、2600記事を書き続ければ、文章力もアップして、65歳の定年以降に、この副業を本業にすることをもできるのではないでしょうか?

 

ある一時点を見て絶望的になる事は簡単ですが、人間は、基本的にもっと強い生物であると思いたいです。

こういった記事を見ると、不安や絶望を抱いて、無力感を感じてしまいますが、大事なのは、日々の生活をコツコツと続けていくことなのではないでしょうか?

 

たった1日で、自分自身の生活を大きく変えることはできませんが、 10年20年とコツコツ続けることができれば、きっと生活を今より、もっとより良くすることができると思って、1日1日を大切に過ごそうというのが今回の結論です。

 

人生100年時代でもっと長期的に見て、自分は100年間で何を成し遂げたいのかということを考える時間を持つのも大切かもしれません。

 

いずれにしても、未来に希望を持って、コツコツと歩んでいきたいものです。それがなかなか大変なのですが。